2006年 02月 24日 ( 1 )

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載しています。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「芝の終戦から30年まで~焦土から復興へ・人口ピーク時代」
 1.引き揚げ当時(昭和21年10月)

 引き揚げ船は、広島県の宇品湾から名瀬に着いた。私のところの一家6名、木慈の積さん10名、皆田さん4名、与路の保さん4名、徳之島の当信義さん、それに宇品で合流した何十人名かの奄美、徳之島出身者である。名瀬でそれぞれにお別れをした。名瀬入港は昼頃と思うが、すぐ芝出身のあずま旅館に入った。

 翌日、当時大島郡知事をしていた豊島至氏に挨拶にお伺いした。私は親戚の女学生に連れられて拝山(ウザン山)の墓地に上がった。豊島栄翁の胸像を拝見した。5~10cmぐらいの珊瑚の敷き詰められた小石に何か記憶を取り戻した。数え3歳で島を出て、今9歳。6年間ですっかり島を忘れてしまっていたのに、この珊瑚を見た時、何か思い出そうとしていた。

 古仁屋から東宝丸で芝に着いた。渡し板を降ろし、海に膝まで入り砂浜に上陸。母や妹は島に上陸した。薄暗かったので石垣しか目に入らなかったが、お城のように石垣がある。その中に家がある。素晴らしいと思った。浜でも家でもたくさんの方々が出迎えて下さった。

 一夜明けた。家の壁も屋根も草で出来ていた。びっくりした。島でいう「ねばり屋」である。母方の祖父母の家である。9尺×2間、別に6畳1間の炊事場があった。祖父母、叔父、叔母4名に私達が入り、10名が当分ここで生活した。

 朝食のサツマイモを食べて、芝の高台の神社に上がった。芝はほとんど戦災で焼けて、神社から浜の石垣まで見えた。故郷は焦土だった。100戸のうち92戸が消失していた。

 父の実家も行ってみた。東の庭のあとに20cmぐらいの柿の木と梅が1本ずつ芽生えていた。西の角に五右衛門風呂がぽつんと残っていた。焼け跡には他に何も残っていなかった。

 芝の集落の人々も、まだ、疎開小屋から抜け出せないでいた。父方は老祖母と叔母がいた。女手では小屋も出来なかったと思う。父と母でねばり小屋を作り出した。9尺×2間、便所。5、6年は、ほとんど毎年家を建てては潰し、また建てた。ねばり小屋は持たないものだ。
by amami-kakeroma | 2006-02-24 23:12 | Comments(2)