人気ブログランキング |

2006年 02月 15日 ( 1 )

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載しています。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「私の昭和18年」 12.引き揚げ船

 V15は貨物船だ。荷物を積み込むところを二重にして、上下に引き揚げ者は押し込められた。船の甲板にも、にわか家が乗せてあり、そこにも人々がいた。お便所もにわか作りで汚物はそのまま海に流した。船が揺れるたびに汚物は溢れて通路を汚した。

 300名とも500名ともいわれていたので、かなり大きな船だった。途中で1、2度アコーディオンを弾く人が演奏して回った。歌を歌った人もいた。耳から細い紐でトランクを持ち上げたり、歯で荷物を持ち上げる大道芸人もいた。
「日本人は大勢集まると、いろんな事をする人が集まるのだな。」
 子供心にも感心した。

 部屋は足を伸ばせないくらいすし詰めだった。トランクに体を半分乗せて横になっている人もいた。親子固まってそれぞれ過ごした。

「メシ上げ」
 銅鑼がけたたましく鳴ると子供達は甲板の炊事場に走った。ご飯のおこげがもらえる。おいしかった。「パリパリ」といって、とにかくおいしかった。

 4日ほどして富士山が見えた。日本に帰ってきたのだ。私は富士山と桜しか内地のことは聞いていなかったように思う。

 チフスが船で発生した。患者は2人と聞いた。そのうちに、静岡を過ぎた夜、1人亡くなって水葬にした。
「お棺は木籠で、鉛をいっぱい詰めて二度と浮上しないようにしてあるよ。」
と、誰からか聞いた。もう少しで日本に着いたら上陸できるのに残念だ。その子のお母さんは悲しんだことだろう。

 5日ほどして着いて上陸できると聞いていたが、チフスのせいか横須賀の沖で2夜ほど過ごした。陸地の明かりがぼんやり見えた。早く陸に上がりたかった。

 さて、いよいよ上陸。長い行列で艀の順番待ちだった。30名くらいずつしか乗らない。何時間も待った。そのうちに一時、船のクレーンで荷物を積み込み下ろす作業に見とれて行列を離れた。ウインチの横の浮き輪がボートの横にあった。日当たりもよくクレーンのフックの上下に見とれているうちに眠ってしまった。

 船員に揺り起こされて、
「たいへんだ。」
 船員が騒ぎ出した。引き揚げ者の行列はもう見当たらない。とっくに艀で送り込んだそうだ。船に残っていた引き揚げ者の責任者らしい人と3人、船のボートで陸に送り込まれた。

 両親も知り合いの人もかなり探したそうだ。父に頭を「ゴツン」と一発されて、宿舎に向かった。浦賀というところだ。宿舎から宿舎に移動するとき桜が満開だった。昭和21年4月20日くらいだったと思う。

 浦賀で、一緒に引き揚げてきた人々は、奄美出身者だけをおいて、全国に散って行った。鹿児島に腸チフスが大発生していて、鹿児島周りでは奄美に帰れない。

 一時、千葉県か埼玉県に収容したいと引き揚げ者援護局から言われ、奄美の大人達に相談された。千葉県は米がある、埼玉県はサツマイモしかないと言われたが、東京に近い。東京の奄美出身者に連絡が取りやすいだろうとの事で、埼玉県の福岡村に向かった。(了)
by amami-kakeroma | 2006-02-15 19:19 | Comments(0)