
天城町浅間集落にある飛行場跡を確認しに、高台にあがりました。そこに偶然通りかかった女性は、終戦当時18歳。トラックが停まっている道が「平和通り」で、昔の滑走路跡ということを教えて下さいました。その道に平行して海側に現在の空港の滑走路があります。

山手に目を転じると、ビニールハウスがあるあたりに飛行機の誘導路が左右に走り、手前左のタンカンが植えられているところが削り取られ、飛行機の格納場所になっていたそうです。

「平和通り」に向って下る際、今までいた道ののり面を確認すると、当時の避難壕と思われる穴がありました。斜め下にむかって掘り下げられていて、三畳程度の広さはありそうでした。

「平和通り」の北側の突き当たりに公園があり、慰霊碑などが建てられていました。

何が“ロマン”でしょうか!

天城町の歴史民俗資料館に展示されていた資料です。

お宿の「御芳名録」ですが、ページをめくるとお名前とそれぞれが思うところを書き残していらっしゃいます。
天城町文化財保護審議委員の方が、「ちなみに公民館口座の文化財ウォッチングの折に、現在の浅間集落の平和通りが特攻基地の滑走路跡であることを講座生の大半が初めて知ったということを知り、身近にある戦跡に対する住民の関心や意識の希薄さに接し、文化財(戦跡の)についての広報活動の重要性を痛感した次第です。」と資料にお書きでしたが、瀬戸内町においても同様でしょう。
何でもありは内容を深く扱うことは能力的に不可能ですが、浅く広くの範囲で戦跡についてアップして行きたいと思っております。