「芝の終戦から30年まで」 2.薩川国民学校
「芝の終戦から30年まで~焦土から復興へ・人口ピーク時代」
2.薩川国民学校
一週間ぐらいして、薩川国民学校へ転入した。学校の校庭の東側に塩たき小屋があった。家のねばり小屋よりかなり広い。戦時中に塩をたいて供出したそうだ。
毎日、私のように引き揚げ者の子供が転入してきた。3年生だった。学校では言葉が話せるのに、島に帰って友達を作ろうにも言葉が話せない。方言が全く使えない。
昭和21年の冬、22年の冬には通学するのに足が痛かった。持ってきた靴が小さくなり履けなくなった。砂利が足に食い込んだ。特に遠足は嫌いだった。遠い道を足だけが進まず、気持ちはうれしいのだが、薩川から俵までとか、篠川から宇検村の山越え、また帰り道、木慈での作文 大会等は、青年学校の女の人に負ぶってもらった。
3年生の真冬、靴がいよいよ履けなくなって、下駄を履いていった。学校の帰り、どうしても見つからない。シクシク、校庭で下駄を探して泣いていた。誰か珍しがって履いて帰ったのだろう。もう誰も教室にも校庭にもいないと思ったら、校長先生が出てこられた。
「どうしたの?」校長先生にいきさつを話すと、すぐ近くの自分の家から大人の下駄を持ってこられて貸して下さった。
重久富吉校長。私の父が高等科一年の時、初めて先生になられて、私が薩川中学校2年の時、退職なさった。親子2代教えていただいた尊い先生だ。
6年生の時、昼食の前に海で手を洗いに行くと、干潮で5cmぐらいの魚を拾った。手のひらに乗せて見ていると、何かの弾みで親指を背びれに刺された。見る見るうちに腫れ上がって、痛い。かなり痛い。
校長先生が家からサンダタ(粉の黒砂糖)を持ってきて塗ってくださった。毒消しにサンダタは良く効いた。学校の正門から下り、南へ2軒隣、50mも離れたところにご自宅があった。
正門から芝へ700mぐらいのところに校長先生のサトウキビ畑があった。奥さんが毎年キビを植えられていた。キビ畑の外側を残して真ん中を芝の生徒が良く食べた。奥さんがご主人に注意を促すが、校長先生は答えない。
堪りかねた奥さんはキビの葉を正門によくくくり付けられた。最初、私は正門の飾りだと思った。後で聞いてみると、芝の生徒は昔からそうだった。正門のキビの飾りは、何十年も続いていたようだ。