「私の昭和18年」 11.日本一のビー玉もち
「私の昭和18年」 11.日本一のビー玉もち
第一次、第二次と引揚者は出て行った。第二次は会社の管理職だそうだ。父が尊敬したはずの工場長は、気違いの真似をして病院船で帰ったそうだ。
「わしらの○○先生は、一番にパーマをかけて、口紅をしてお嫁に行って第一次で帰ったよ。」
何か悔しかった。
「国民学校で校長先生を父、女の先生を母と思いなさい。」
私の尊敬する○○先生がパーマをしたなんて思いたくもなかった。何か裏切られたように思えた。
子供達は、空き家とか空襲でやられて壊れたところでスパイごっこをして遊んだ。白墨で矢印をしたり、引き揚げた誰それの話をしたり、中国の蒋介石の首を打ちたいとか、マッカーサーを大根のように刻みたいとか、どうして神の国が敗れたのだろうとか話していた。
ふと空き家の庭を見ると、ビー玉がたくさん転がっていた。カルタも落ちていた。私には一つも買ってもらえなかったオモチャだ。家具類はほとんど台湾人が集めて回ったので何も無かったが、庭にはビー玉やカルタがやたらに落ちていた。せっせとそれらを集めて、家の縁の下に蓄えた。2、3ヶ月のビー玉日本一の所持者だ。
学校に行ってみた。理科の教材の人体模型とかエレクト(平賀源内)の実験機やビーカー、薬瓶等が散乱していた。このようなものを台湾人が管理したら、また使用できるのにと思った。私の手の届かなかった剣道の道具も泥まみれになって落ちていた。面を思い切り蹴飛ばした。
月に一度、全員でお参りした神社は、さらにひどかった。屋根と柱だけが残されて、並木までが枯れかけていた。ゴミが境内に散乱していた。
4月、ようやく私達も引き揚げることになった。第三次引揚者だ。砂糖会社の技術者は、指名されて残るそうだ。日本内地は「富士山」と「桜」、それ以外の知識は全くなかったように思う。
家族で夜具一式。子供は、墨で塗りつぶされた本1冊、ノート2冊、鉛筆3本、胸から吊るした1000円札1枚だが、私の札入れには何も入っていなかった。通達でもあったのだろう、他はほとんど持出せなかった。
デマがデマをよんだ。通達以外を持出すと、一人、一家だけでなく、全戸に迷惑がかかる。日本内地に帰れなくなる。電波探知機を米国は持っていて何でも分かってしまう。お金は1人1000円、布団上下が一家の全財産だ。子供達は先ほどの教材だけだ。列車の窓から余計なお金は破り捨てる人が何人もいた。
タカオの埠頭で5、600名が荷物を自分の前に置き、2m間隔で両足を広げ、手を水平に伸ばして検査を受けた。周辺には銃を持った人が一番高いところで見張っていた。チャン笠をかぶった兵隊が胸や股を探った。
女性には女性の検査官が回ってきた。1人、60歳くらいのおばあちゃんが履いていた草履を取り上げられた。あのおばあさん、日本に着くまで裸足だったそうな。涙がこみ上げてきた。
「さらば台湾よ。また来るまでは。」
船の上から全員で歌い合唱した。タカオの港を「V15」」と書かれた貨物船で出航した。