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「私の昭和18年」 8.台湾人の生活

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載します。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「私の昭和18年」 8.台湾人の生活

 新港農場は砂糖会社が計画的に作った農場で、今まで父が勤めていた農場の敷地とほとんど同じ構造になっていた。東西南北が少し違うだけで、私も学校に行けなくなると自然と台湾人の家をのぞくようになった。

 日本人宿舎も台湾人宿舎も見取り図は同じだった。台湾人宿舎は6畳ほどの板間と6畳ほどの土間だけだった。土間で炊事をしていたようだ。水は共同井戸で、長い紐で、水面が雨季には浅く、乾季にはかなり深かった。

 よくパイパイをしていた。長椅子にお線香、神様用に洗面器、お茶、お餅、ごはん、煮物と見事なご馳走だった。

 生活は農場で働き、また農場に吸収されなかった川の淵とか荒地を耕してわずかな野菜を作り、主食はサツマイモで、サトウキビの輪作に米やイモを作っていたように思う。家畜の牛や馬、水牛は農場で飼っていたが、山羊、豚は個人で、ニワトリ、アヒル、ガチョウは個人ではなく飼い、空き家の縁の下で孵化させていた。

 結婚式も賑やかだ。印象に残るのは、お札に赤いリボンをつけ、新婚さんの部屋の壁一杯に貼り付けていた。

 また、葬式も厳かだ。長い大きな丸太を刳りぬいてお棺を作り、広場で10名ほどで担いで移動させる。お棺の主の位置には小屋をはり、行列には親戚、ご近所、お棺の近くに泣き女がついて、この無き女の数で葬儀の大きさが分かるそうだ。笛、太鼓、飾り物、それはそれは3日も4日もかかる、全財産を使い果たす盛大なものだ。

 またある日、壮年が早朝草籠を背負って畑に行くので、「何がいるか?」と尋ねたら、子供の死骸だった。赤ちゃんは自分の前に置き、何かの拍子に後ろ向きに井戸に落ちて、発見されるのが遅く溺死したらしい。親より先に死ぬことは一番の親不孝だと、線香の1本もあげず、畑の隅に穴を掘り埋めて、作物の肥料にするそうだ。先ほどの老人の死とは大違いだ。

 沖縄や奄美でかつて呼ばれていた「のろ」。予言者、占い師、医者に相当する人の死は、さらに壮大な葬儀をあげ、土饅頭もセメントで練り上げる。

 学校に行く途中、大きな墓地を通過する。お墓はお棺を埋めて小山を作る。日本の古墳と同じだ。お墓の正面にかまぼこを輪切りにしたような墓標がある。何か書かれてあったが、ほとんど見ていなかった。火葬もあったようだ。

 新港農場から三東国民学校に行く途中の竹林の中に、三東国民学校の分校が独立した台湾人ばかりの学校があった。先生はほとんど日本人のようだった。「5、牛若丸。」大きな声で歩きながら本を読んで通学する。日本語教育をしているのだ。

 トロッコの線路が交差するところがあった。でも私の住む新港農場は遠くて、そこまで行けば主任さんや父が日に一度くらい日本語を教えていたように思う。

 2、3歳くらいの幼児が可愛かったので、思わず「可愛いね。」と頭をなでてやったら急に泣き出して、その子の親が怒り出した。私は左利きで、左手を使ったからだ。台湾人は子供の頃から右はご飯を口に運ぶ手、左はおしりを洗う手とはっきり分かれていて、私が知らなかったからだ。

 また、赤ちゃんを覗き込んで、「可愛いね。」と声をかけたら、やはり泣き出した。びっくりしたのだろう。あまり泣きすぎて引付をおこした。大変だ。薬に私の小便をくれとせがまれた。私の母が頭痛薬を差し出すと、目の前で破って捨ててしまった。あくまでも私の小便が欲しいらしい。私は汚いからと拒む。母は仕方なく私の古着をやった。私が寝小便するから、その古着をやると、それを煎じて飲ますといって話はついた。そのようなこと以外はほとんど接触がなかった。

 妹の静子は片言の台湾語を覚えていて、母と台湾人の通訳をしていたようだ。私は、こおろぎ「トッペア」、蛙「ツィケ」、婦人「チャボラン」、子供「ギナ」、バナナ「キンチョー」ぐらいしか覚えていない。

 養豚が盛んで、ほとんどの台湾人が豚を飼っていた。オスの子豚は早い段階で去勢をした。昔からの去勢の技術だ。早く太らすためという。金玉を抜き取って、鍋の底の炭か煙突の煤煙を塗って消毒、さらに田の泥を塗りこんで放してやる。それだけだった。

 また、彫刻をする人もいた。杖を持つ頭のつるりとした仙人を彫るのが得意だった。空手をする人もいた。竹細工もしていた。赤ちゃんを座らせる籠とか、椅子など、かなり高度な技術を持っていて、丸太小屋など梁、柱木材の代わりに、竹を使った柱にする竹は、中の空筒が小さく、立派な柱竹は集落の周りに植えられていた。チマキも竹の皮で包まれおいしかった。

 昭和19、20年は学校に行けなかったので、こうして台湾人の生活を見たり、夏の間は野原を駆け回ったり、鉄橋の下のセメントについた海老を捕ったり、ツルムラサキの実を採って白い布切れを紫色に染めて理科の学者になりたいとか、土蜂の巣を観察したりして遊んだ。
by amami-kakeroma | 2006-01-13 18:14