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「私の昭和18年」 3.新港農場

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載します。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

3.新港農場

 新港農場に急に転居した。この農場は同じようにサトウキビ畑の中にあった。日本人は田尻さんという25才くらいの主任さんだ。2戸だけだった。農業大学を出て、まだ独身だった。

 台湾人の宿舎が2棟40戸ほどだった。西の端が入り口で橋があった。橋を渡ると右手に事務所、主任さん、私の家と一棟に3戸分の家があった。

 日本人の子供は私と妹、弟の3人だけ。私は1年生、妹は2才、弟は1才の年子。私はほどんど1人で遊んだ。

 農場から学校までは畳2枚より少し小さいトロッコだ。真ん中に長椅子3人掛けが一つあり、前後に手すりがついていた。運転手は45才くらいの陳さんだ。長椅子より後ろに座り、足で線路を蹴って運転する。3mくらいの竹竿が1本、これだけがトロッコの部品。風の強い日は20才くらいの親子でトロッコをこいだ。私は長椅子の真ん中にちょこんと座り、朝6時に出発した。お殿様の子供が1人籠に乗り、旅しているようなそんな気持ちになっていた。

 家から学校までは途中にポイントが4ヶ所あり、内3ヶ所はサトウキビの積み込み所で、50mほどの側線になっていた。学校まではトロッコで2時間かかった。国民学校の1年生から3年生まで陳さんとはおつきあいしたが、言葉を話せなかったのと、日本人、台湾人という差別が生まれていたので、ほとんど口をきかなかったが、陳さんは真面目な人だったと思う。
by amami-kakeroma | 2005-12-21 22:05