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「私の昭和18年」 2.徴兵検査

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載します。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

2.徴兵検査

 まだ学校に入る前だったと思う。文字も全く読めない、書けないころだ。
「お父さん、こんな絵がのっているよ。」
 新聞の一こまの漫画を見つけて、私は父親にその新聞を差し出した。イタリアの白い帽子を頭に乗せた白いエプロンをした大男が、大きなフライパンに小さな肉を一切れ乗せて、物価の値上がりを風刺した漫画だった。イタリアが戦争に巻き込まれて一番つらい一般の生活を描いたのだろう。
「今に日本もそうなるよ。」

 父の一言が3年先の日本の敗戦を予想していた。三度の食事も家も着物も不足していない平和な家庭だ。薪割りや水汲み、大掃除、風呂焚き、台湾人がすべてしてくれる。砂糖会社の現場監督だった父の生活でもそのように豊かだった。

 南西国民学校に入学したのが昭和18年、50人ほどの1学級に5名ほど台湾人の子供が入っていた。巡査の子供とか、会社の少しよい地位の子供とか、金持ちの子供とか聞いていた。

 入学記念写真を撮るとき、私の横に座っていた子供が急に胸を張って腕を私の前に出したので、私はかなり小さく弱々しく写ってしまった。その写真を見るたびに、これが台湾人の子供だ。ずるがしこい。なんだかそのような印象を持った。それ以後、私も写真を撮るとき、どうしても皆より少し前へ出て胸を張る癖がついてしまった。

 トロッコで6名の子供が少し窮屈だが仲良く通学した。周囲はほとんどサトウキビ畑だ。風景はそれ以外覚えてない。覚えているのは、国民学校がお宮の一段下にあったこと、校庭に大きなパンの木が何本かあり、そのパンの実を六等分にして家に持ち帰ったことぐらいだ。そして、作文が校内新聞に三等で載り、女の先生が喜んでくださったことぐらいだ。

 日麻きやくの農場で女の子の友達ができた。まだ私が学校に入る前だった。1年生と3年生の姉と妹だ。
「男の子だったら軍人になるよね。」
「そうだ。僕、軍人になるよ。」
「だったら、徴兵検査をしましょう。」

 身長合格、体重合格、長い板の上に乗って体重を計った。それから裸にされて、四つんばいになって、手を八の字に広げて、おしりと金玉を見た。「甲種合格。」子供達は大人の話から聞いて、十分に徴兵検査を知っていた。

「今度は肝試し。男の子は泣かないよね。」
「うん。僕は泣かない。」

 お姉ちゃんが私の腕をつかみ、妹がカミソリで私の手首を薄く切っていった。赤い血が少し滲み出た。次に右手を同じように差し出した。それまでに私は1人で育ったせいか、全く痛いとか血を見ることもなかったので、この儀式に何も感じなかった。また、今まで泣いたこともなかった。男の子、軍人になりたかった。それだけの思いだった。

 女の子の母親が見つけてカミソリを取り上げると、姉妹を怒鳴りつけ殴った。女の子は2人とも大声で泣き出した。泣くということはそのようなものかと初めて分かった。メンタムを傷口につけて、包帯をぐるぐる巻いてくれた。白い包帯を両手にぐるぐる巻いて帰ると、私は『男の子軍人合格』の思いで何かうれしかった。女の子の母親がすぐついてきて、私の母にさかんにお詫びした。
by amami-kakeroma | 2005-12-21 21:44