正己おじの話
昭和19年のはじめ、徳之島の浅間の飛行場づくりも行った。行ってみたら、母間と花徳の間の道路づくりだった。同窓会のときに、この道だと案内してもらった。
<戦争中、喜界島にも行った話>
喜界島の震洋の格納壕も掘りに行った。山下隊で、少尉は阿鉄の重田くにお、中尉はとみしか。140人から150人が3つの班に分かれた。まだ、まる4艇も来ていなかった。
「せいらん棒」という2間長さの鉄の棒で(何人かの人力で)穴を開けて、ダイナマイトを入れて、昼夜二交代12時間交代で作業をした。
海軍だったので食べ物は良かった。足りなかったが。
祭日は小さな箱に入った羊羹が1切れ(箱)ついた。何かあるときは恩賜のタバコを2本もらった。
諸鈍の青年団も行っていた。大田の人も行っていた。
大中の学生、3年の時。
<転校の話から、お父様の話へ>
諸鈍校を卒業したか伺うと、小学生の時に西阿室へ転校したとのこと。お父様は「林 有沢(ゆうたく)」氏。
諸鈍校では教頭先生、阿木名校には6ヶ月、西阿室、秋徳、押角校で校長先生。そこから鎮西村長。瀬戸内町となったときに、古仁屋(ひらせ氏)、実久(きいれ氏)、西方、鎮西村の首長の中で年長だったから(正己おじの表現)、短い間、町長代理を勤め、川井町長のときに助役を勤めた。
助役のときに、山下清(画伯)が来町した。
<追記>
・第40震洋隊 安藤中尉 鹿児島県奄美大島(喜界島早町)
・第111震洋隊 後藤少尉 大島(喜界島小野津)
・『他にも1945年2月4日には内容不明の奉仕隊を運んでいる。(註7)3月12日には喜界島から名瀬へ奉仕隊を運び、3月14日には瀬相から名瀬に奉仕隊を運んでいる。(註8)前者は同年1月27日から3月12日まで喜界島で震洋の格納壕掘りに動員された大島中学校3年生であろう』」(「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」ブログ 奄美近海での船舶被害(27)-長水丸と大発による輸送- )