お勉強の8時間でした。
「野田宇太郎」とは、どんな人か。「野田宇太郎文学資料館」のHPの「小郡の詩人、野田宇太郎のご紹介」のページを読むと、何でもありが知っている名前は少し。それでも、「文学散歩」の産みの親だったりと、とても興味深い文学者であり編集者でした。
明治42年10月、三井郡立石村大字松崎(現福岡県小郡市松崎)に生まれ。
1 詩人
野田宇太郎の詩人としての活動は、昭和5年、久留米に出て同人誌「街路樹」に参加した頃からはじまります。昭和8年第一詩集「北の部屋」を刊行。昭和11年には、詩誌「糧」(後に「抒情詩」と改題)を創刊し、盛んな詩作活動を展開しました。「糧」には丸山豊、安西均など優れた詩人が集いました。また、昭和17年に出版された「旅愁」は、詩集のベストセラーとなり、野田は詩壇に揺るぎない位置をしめました。
2 出版・編集者
昭和15年、上京して出版社に入社した野田は、雑誌「新風土」を編集、下村湖人の埋もれた原稿「次郎物語」を出版してベストセラーにするなど、優れた出版編集者として活躍し、昭和19年には、戦争末期ただ一つの文芸誌となった「文藝」の責任編集者として、あらゆる困難に立ち向かって文芸の灯を守りました。
野田の編集者としての鋭い批評眼と人物発掘には定評があり、その手がけた雑誌より、当時無名だった三島由紀夫や幸田文らを作家として世に送り出しました。
3 文学散歩の創始者
「文学散歩」の語は、野田宇太郎の創案になるもので、昭和26年「日本読書新聞」に「新東京文學散歩」を連載したことにはじまります。以来30余年にわたる「文学散歩」は、野田のライフワークとなりシリーズ全26巻が刊行されました。「文学散歩」は、実地踏査による文学の実証的研究書の先駆けであるばかりでなく、独自の優れた紀行文学でもあります。
野田が「文学散歩」の執筆を決意したのは、戦争と戦後の無惨な文化遺産、自然風土の破壊に対する文学者としての憤りからでした。「過去の目標を失えば、同時に未来の目標も失う」という野田の言葉は「文学散歩」を生みだし、藤村記念堂、鴎外記念館、明治村の建設など歴史的風土の保存への情熱と尽力は「文学散歩」の意義の実践でした。
1~3までを、島内を回る間に解説していただいちゃったりした8時間。贅沢でした。ありがとうございました!!!
以下、ツアー中のスナップ。
遊歩道の先、「出会いの浜」へ行くまでの海岸線の枯れ松の伐採もよろしく!!!