加計呂麻にいらした兵隊さんと歩く戦跡。
お一人は古仁屋在住で敗戦後も武装解除などに立ち会っていた赤井さん。もうお一方は北九州在住で安脚場のカネンテ崎防備衛所と瀬相本部にいらした木下さんです。
お二人は9時に海上タクシーで古仁屋を出て、三浦の先のサキバルの辺りに「蛟龍」が一艘沈んでいないかを海中に錘を落として調べてから三浦集落の桟橋に上陸。10時に何でもありと落ち合うことになっています。
何でもありが10時少し前に「三浦リゾートゴルフセンター」のところを右折すると何人かの方が立ち話をなさっています。通り過ぎてからお二人だったことに気づき、バックバック♪
地元の三浦さんに敗戦後、「蛟龍」がサキバルにあったか、どうなったかを聞いていらっしゃいました。三浦さん曰く、「袈裟懸けのように弾痕のあった一艘があったが、みんながバラして持っていった。」そうです。木下さんの探しているもう一艘のことはご存知なかったです。
何でもありは、山口にお住まいの「蛟龍隊」にいらした岡本さんが、龍郷への移動に使ったと聞いた気がするのですが、最後はどうなったんでしょうね。
三浦さんのお話で、岡本さんが今のマベパールさんの作業所の先で爆薬を集めて時限爆弾で爆破したとおっしゃっていた爆薬が、第17震洋隊の艇に充填されていた爆薬だったことが分かり、何でもありの収穫となりました。
また、第17震洋隊の本部は入り江の奥にあったと勝手に思っていましたが、岬の両側に掘られていた格納壕での動きが把握できるよう岬の上にあったということも分かりました。三浦さんにお礼を申し上げ、瀬相に移動します。
何でもありは、旧海軍司令部跡が加計呂麻の戦跡の中で一番重要な場所と考えています。加計呂麻で平和教育を行う上で、真っ先に来るべきところではないでしょうか。
瀬相の消防署の脇に旧海軍司令部跡の見取り図等を示し、加計呂麻島がどのような役目をしていたのか、どのような陣容であったか、ここでどのような戦いがあったのか、捕虜がいたのか、地元の人との交流はあったのか、戦後、慰霊祭が行われていたのかなど、島人にも島を訪れる方にも知っていただきたいし、是非、慰霊碑に手を合わせていただきたいと願っています。
明日もご一緒します♪