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2月26日に奄美会館であった「シンポジウム・アマミノクロウサギの来た道~国内希少種の過去と現在、そして未来」を拝聴してきました(よんどころない事情で途中退出しましたが、きっと聴けなかったお二人分は、Kさん、Yさんが次に会ったときに教えてくれると信じています。)。

わたくし、ヒギャからのお上りさんで、島かけすさんのブログで奄美会館が大島支庁の近くということまでは分かったのですが、車でどう行けばいいのか、駐車場はあるのかとかが分からなかったので、早めに会場の近くまで行きました。

すると、わりと大きな文字で「丸田南里の墓→」と案内が出ているではないですか。「砂糖の自由売買運動」の指導者として聞いたことのあるお名前なので、矢印につられて行ってみました。

小さな一角が墓地になっていて、一番奥の見晴らしがよくなっているところに南里さんのお墓はありました。36歳という若さで亡くなった南里さんに合掌。

きっと功績が書かれていたと思う案内板は、枠だけになっていました。修理中なんでしょうね。しまがたれさんのHPの「奄美・歴史」に詳しく書かれていますので、興味のある方は読んでみて下さい。
奄美カンポンLIFEさんのブログの「野生化ヤギに悲メイ」 のmakoさんのコメントに反応しちゃいました。

沖縄に、こんな山羊肉の加工品がありましたよ。
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by amami-kakeroma | 2006-02-27 22:56 | | Comments(4)
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諸鈍は暖かいせいか、実が色づき始めました。
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今日のお客様は、手安の民宿「ゆらりとざわわ」さんご紹介で大阪からお越しの方。

11時のお迎えだったので、午前中に諸鈍をご案内して、渡連のブラウンシュガーさんで昼食。午後から、渡連、安脚場、徳浜をご案内、浜繰のホライゾンクラブさんでお茶をして、呑之浦をちょっと見て、於斉経由で、本日のお宿「ゆきむら」さんへお送りしました。

写真は、安脚場の園地に咲き乱れていたオキナワチドリ。最初に見つけた小さな株を一生懸命撮っていたら「寺本さーん、こっちにいっぱい咲いてますよー。」って教えてくださいました。激写!

「みどりの島・奄美」さん風にデータを載せてみると。

[場所]加計呂麻島 安脚場砲台跡
[撮影]2006/02/27
[分布]屋久島から沖縄
ラン科
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加計呂麻にあるイチゴで、まだ紹介していなかったナワシロイチゴを発見。草かと思ったら、ちゃんとしたバラ科の落葉小低木でした。
現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載しています。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「芝の終戦から30年まで~焦土から復興へ・人口ピーク時代」
 2.薩川国民学校

 一週間ぐらいして、薩川国民学校へ転入した。学校の校庭の東側に塩たき小屋があった。家のねばり小屋よりかなり広い。戦時中に塩をたいて供出したそうだ。

 毎日、私のように引き揚げ者の子供が転入してきた。3年生だった。学校では言葉が話せるのに、島に帰って友達を作ろうにも言葉が話せない。方言が全く使えない。

 昭和21年の冬、22年の冬には通学するのに足が痛かった。持ってきた靴が小さくなり履けなくなった。砂利が足に食い込んだ。特に遠足は嫌いだった。遠い道を足だけが進まず、気持ちはうれしいのだが、薩川から俵までとか、篠川から宇検村の山越え、また帰り道、木慈での作文 大会等は、青年学校の女の人に負ぶってもらった。

 3年生の真冬、靴がいよいよ履けなくなって、下駄を履いていった。学校の帰り、どうしても見つからない。シクシク、校庭で下駄を探して泣いていた。誰か珍しがって履いて帰ったのだろう。もう誰も教室にも校庭にもいないと思ったら、校長先生が出てこられた。

 「どうしたの?」校長先生にいきさつを話すと、すぐ近くの自分の家から大人の下駄を持ってこられて貸して下さった。

 重久富吉校長。私の父が高等科一年の時、初めて先生になられて、私が薩川中学校2年の時、退職なさった。親子2代教えていただいた尊い先生だ。

 6年生の時、昼食の前に海で手を洗いに行くと、干潮で5cmぐらいの魚を拾った。手のひらに乗せて見ていると、何かの弾みで親指を背びれに刺された。見る見るうちに腫れ上がって、痛い。かなり痛い。

 校長先生が家からサンダタ(粉の黒砂糖)を持ってきて塗ってくださった。毒消しにサンダタは良く効いた。学校の正門から下り、南へ2軒隣、50mも離れたところにご自宅があった。

 正門から芝へ700mぐらいのところに校長先生のサトウキビ畑があった。奥さんが毎年キビを植えられていた。キビ畑の外側を残して真ん中を芝の生徒が良く食べた。奥さんがご主人に注意を促すが、校長先生は答えない。

 堪りかねた奥さんはキビの葉を正門によくくくり付けられた。最初、私は正門の飾りだと思った。後で聞いてみると、芝の生徒は昔からそうだった。正門のキビの飾りは、何十年も続いていたようだ。
現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載しています。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「芝の終戦から30年まで~焦土から復興へ・人口ピーク時代」
 1.引き揚げ当時(昭和21年10月)

 引き揚げ船は、広島県の宇品湾から名瀬に着いた。私のところの一家6名、木慈の積さん10名、皆田さん4名、与路の保さん4名、徳之島の当信義さん、それに宇品で合流した何十人名かの奄美、徳之島出身者である。名瀬でそれぞれにお別れをした。名瀬入港は昼頃と思うが、すぐ芝出身のあずま旅館に入った。

 翌日、当時大島郡知事をしていた豊島至氏に挨拶にお伺いした。私は親戚の女学生に連れられて拝山(ウザン山)の墓地に上がった。豊島栄翁の胸像を拝見した。5~10cmぐらいの珊瑚の敷き詰められた小石に何か記憶を取り戻した。数え3歳で島を出て、今9歳。6年間ですっかり島を忘れてしまっていたのに、この珊瑚を見た時、何か思い出そうとしていた。

 古仁屋から東宝丸で芝に着いた。渡し板を降ろし、海に膝まで入り砂浜に上陸。母や妹は島に上陸した。薄暗かったので石垣しか目に入らなかったが、お城のように石垣がある。その中に家がある。素晴らしいと思った。浜でも家でもたくさんの方々が出迎えて下さった。

 一夜明けた。家の壁も屋根も草で出来ていた。びっくりした。島でいう「ねばり屋」である。母方の祖父母の家である。9尺×2間、別に6畳1間の炊事場があった。祖父母、叔父、叔母4名に私達が入り、10名が当分ここで生活した。

 朝食のサツマイモを食べて、芝の高台の神社に上がった。芝はほとんど戦災で焼けて、神社から浜の石垣まで見えた。故郷は焦土だった。100戸のうち92戸が消失していた。

 父の実家も行ってみた。東の庭のあとに20cmぐらいの柿の木と梅が1本ずつ芽生えていた。西の角に五右衛門風呂がぽつんと残っていた。焼け跡には他に何も残っていなかった。

 芝の集落の人々も、まだ、疎開小屋から抜け出せないでいた。父方は老祖母と叔母がいた。女手では小屋も出来なかったと思う。父と母でねばり小屋を作り出した。9尺×2間、便所。5、6年は、ほとんど毎年家を建てては潰し、また建てた。ねばり小屋は持たないものだ。
昨日届いていた資料を、朝8時半から慌てて読み出す。田んぼの草取りの約束が9時半からだから1時間しかないわ。・・・・・・。ゲッ! 9時半になってしまった。まだ半分しか読めてない。

慌てて着替えて、田んぼへ行こうとすると、携帯の留守電に田んぼ仲間の柘植さんから「プロが来島してるから、一緒にカンアオイを探しに安脚場へ行こう」というメッセージが。そりゃ無理だ。身体はひとつしかない。柘植さんとカンアオイのプロの方にそちらはまかせて、あたしゃ草取りへ。・・・・・・。ゲッ! 11時40分になってしまった。フェリーは12時10分だ。

慌てて家に帰り、着替えて、支度して、生間待合所へ。はふはふフェリーに駆け込むと、「出港は15分ですよ。」「へ? そうでしたっけ。」駄目なガイドさん。

フェリーに乗り込むと、あまんゆ仲間のミキさんと、諸鈍仲間のマキさんがいる。話がはずみ、話の続きはそれぞれ用事を済ませてジョイフルでということになる。

初「古仁屋ジョイフル」です♪

あら、嵩くんじゃない。こんにちは。
あら、スタジオーネさん、リトルライフさん、こんにちは。
あら、バイト先で一緒だった高橋さんご一家、こんにちは。
あら、高橋さんのお友達、こんにちは。
あら、諸鈍の保育所の先生だった麻美さん、こんにちは。
あら、渡連のヤッコさん、勇さん、こんにちは。

人間交差点みたいなお店ですね。少し時間をもらって資料読了。これで、会議に出られるワ。
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真面目な話。この会、何をしていたかというと、

「加計呂麻島、請島、与路島からなる加計呂麻諸島の自然、歴史・伝統文化、特色ある食・豊かな人情、ゆったりとした時の流れなど、島のあらゆる資源・空間を「健康・保養・癒し」といったテーマのもとに活用し、住民自身が健康になるとともに、交流人口の増加につなげ、島の活性化を目指す地域づくりをする」ために、

1)アイランドテラピーの意義の整理
2)瀬戸内町の観光の現状と問題点・課題の整理
3)加計呂麻諸島の特性の整理
4)アイランドテラピーに関連する町内外の動きの整理
5)瀬戸内町アイランドテラピーの基本方針の整理
6)瀬戸内町アイランドテラピーのメニューの検討
7)推進計画の検討
 ①情報発信・PR戦略
 ②必要となる基盤整備・条件整備
 ③推進体制づくり
8)今後の行動計画の検討

をしたわけです。今日が最終回で、報告書の原案が昨日届いていたので朝からチェックしていたのです。事務局は東京のメッツさんで、遺漏無くうまくまとめてました。これを地元の会社が育って出来るようになるといいんですけどね。

検討過程で浮かび上がってきたのは、わたしも町も観光協会も含め観光関係者の努力不足。

これまでは、ダイビング業者を除き、宿、ガイド、レンタカー屋等は個々に頑張ってはきたものの、それぞれの力は弱いものでした。横の連携をとりましょう。まず最初は加計呂麻諸島のマップ作りから。

小さな一歩が踏み出せそうです。
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諸鈍の大田のツゲさんのお宅へ資料を届けに行きました。向かいの塀の上に一匹のネコが。車を方向転換させて出て行くときに、じいっと車の角が塀を擦らないか、覗き込んで見ていてくれました。ありがとよっ。
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