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カテゴリ:戦争

  • 特攻隊の歌
    [ 2012-03-11 16:26 ]
  • 赤尾木無線送受信所攻撃(1945・4・5)
    [ 2011-01-13 19:53 ]
  • 「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」ブログ
    [ 2010-12-12 02:42 ]
  • 正己おじの話
    [ 2010-12-09 23:55 ]
  • 再訪をお待ちしています!
    [ 2010-03-31 23:57 ]
  • 加計呂麻にいらした兵隊さんと歩く戦跡。
    [ 2010-03-30 23:55 ]
  • 壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます
    [ 2009-06-01 07:22 ]
  • 国立公文書館 デジタルギャラリー
    [ 2009-04-18 23:16 ]
  • 下関の岡本さんの資料 その1
    [ 2008-10-13 23:54 ]
  • 徳浜の標的
    [ 2008-03-20 23:11 ]

特攻隊の歌

  特攻隊の歌

1、遥かに聞こえる銃声は
  敵か味方か 夜は暗く
  疲れているが頼むぞと
  歩哨に出したわが部下の
  安否はどおかと目が冴える

2、あれ見よ 島尾隊長は
  人情深くて 豪傑で
  僕らのやさしいお父さま
  貴方の為なら喜んで
  みんなの命を捧げます

3、こしゃくなやんきいなんのその
  進め身草行く所
  こんな良い部下持つ我は
  日本一のかほお者
  心に感謝があふれ出る

4、明日はいよいよ出撃だ
  隊長殿よ我が部下よ
  明日こそ名誉の決死隊
  特攻隊の勇ましさ
  歴史と共に輝くよ

by amami-kakeroma | 2012-03-11 16:26 | 戦争 | Trackback | Comments(0)

赤尾木無線送受信所攻撃(1945・4・5)

「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」ブログさんから、メモメモ。

 赤尾木無線送受信所攻撃(1945・4・5)

by amami-kakeroma | 2011-01-13 19:53 | 戦争 | Trackback | Comments(0)

「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」ブログ

2009年7月にご案内した菊池さんのブログです。多くの資料によって書かれている超一級のブログを再度ご紹介しておきます。

 「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」ブログ

by amami-kakeroma | 2010-12-12 02:42 | 戦争 | Trackback | Comments(0)

正己おじの話

<戦争中、徳之島に行った話>
昭和19年のはじめ、徳之島の浅間の飛行場づくりも行った。行ってみたら、母間と花徳の間の道路づくりだった。同窓会のときに、この道だと案内してもらった。

<戦争中、喜界島にも行った話>
喜界島の震洋の格納壕も掘りに行った。山下隊で、少尉は阿鉄の重田くにお、中尉はとみしか。140人から150人が3つの班に分かれた。まだ、まる4艇も来ていなかった。

「せいらん棒」という2間長さの鉄の棒で(何人かの人力で)穴を開けて、ダイナマイトを入れて、昼夜二交代12時間交代で作業をした。

海軍だったので食べ物は良かった。足りなかったが。

祭日は小さな箱に入った羊羹が1切れ(箱)ついた。何かあるときは恩賜のタバコを2本もらった。

諸鈍の青年団も行っていた。大田の人も行っていた。

大中の学生、3年の時。

<転校の話から、お父様の話へ>

諸鈍校を卒業したか伺うと、小学生の時に西阿室へ転校したとのこと。お父様は「林 有沢(ゆうたく)」氏。
諸鈍校では教頭先生、阿木名校には6ヶ月、西阿室、秋徳、押角校で校長先生。そこから鎮西村長。瀬戸内町となったときに、古仁屋(ひらせ氏)、実久(きいれ氏)、西方、鎮西村の首長の中で年長だったから(正己おじの表現)、短い間、町長代理を勤め、川井町長のときに助役を勤めた。

助役のときに、山下清(画伯)が来町した。

<追記>
・第40震洋隊  安藤中尉 鹿児島県奄美大島(喜界島早町)
・第111震洋隊 後藤少尉 大島(喜界島小野津)

・『他にも1945年2月4日には内容不明の奉仕隊を運んでいる。(註7)3月12日には喜界島から名瀬へ奉仕隊を運び、3月14日には瀬相から名瀬に奉仕隊を運んでいる。(註8)前者は同年1月27日から3月12日まで喜界島で震洋の格納壕掘りに動員された大島中学校3年生であろう』」(「鹿児島県奄美諸島の沖縄戦」ブログ 奄美近海での船舶被害(27)-長水丸と大発による輸送-

by amami-kakeroma | 2010-12-09 23:55 | 戦争 | Trackback | Comments(2)

再訪をお待ちしています!

昨日に続き、木下さんと赤井さんと加計呂麻を回ります。

まず、渡連の待網崎の入り口と安脚場戦跡公園へ。待網崎では入口の看板に一番激しい戦いがあった日付けが書いてあったというご記憶でしたが、無し。調べましょうね。

安脚場戦跡公園では、今日までこちらの管理人をなさっている福山さんがお待ちで、一緒に園地を歩きながら情報交換なさっていました。

木下さんがこちらにいらした時に、2月頃、山裾からずうっと白いきれいな花が咲いていた記憶があり、戦後、わざわざ2月に来てみたがその花が見られなかった謎は、土地の払い下げを受けた福山さんが牧場にする爲に焼いたということが判明。今の木々はその後のものなんですね。

天水貯水池の上にあるプールは、福山さんが年配者に聞いた話では、この陣地を作るときにセメントに加える水が必要になるということで天水を溜めたものだということです。工事をするためにイの一番に作ったものなんでしょうね。

発電は重油を使った火力発電で、ディーゼルエンジンを使用していたそうです。
ここは徳浜。昔、土手の外側に家が一軒あって、そこでご飯を食べさせてもらったことがあるということで、その確認です。残念ながら「けんむん茶屋」さんもお母様もご不在でお話を伺うことはできませんでしたが、家を守っている防風林などをご覧になりながら納得なさったようです。

お仲間が彼岸に旅立たれている中、「自分は以前書いた本の内容で思い込みで書いた部分があるから、それを調べるのが残されている自分の仕事だと思っているよ。」とおっしゃる木下さんです。
「また来るよ。」
うれしいお言葉です。再訪をお待ちしています!!!

by amami-kakeroma | 2010-03-31 23:57 | 戦争 | Trackback | Comments(0)

加計呂麻にいらした兵隊さんと歩く戦跡。

今日は戦争中に加計呂麻島に兵隊さんとしていらしたお二人の方とご一緒していました。

お一人は古仁屋在住で敗戦後も武装解除などに立ち会っていた赤井さん。もうお一方は北九州在住で安脚場のカネンテ崎防備衛所と瀬相本部にいらした木下さんです。

お二人は9時に海上タクシーで古仁屋を出て、三浦の先のサキバルの辺りに「蛟龍」が一艘沈んでいないかを海中に錘を落として調べてから三浦集落の桟橋に上陸。10時に何でもありと落ち合うことになっています。

何でもありが10時少し前に「三浦リゾートゴルフセンター」のところを右折すると何人かの方が立ち話をなさっています。通り過ぎてからお二人だったことに気づき、バックバック♪

地元の三浦さんに敗戦後、「蛟龍」がサキバルにあったか、どうなったかを聞いていらっしゃいました。三浦さん曰く、「袈裟懸けのように弾痕のあった一艘があったが、みんながバラして持っていった。」そうです。木下さんの探しているもう一艘のことはご存知なかったです。

何でもありは、山口にお住まいの「蛟龍隊」にいらした岡本さんが、龍郷への移動に使ったと聞いた気がするのですが、最後はどうなったんでしょうね。

三浦さんのお話で、岡本さんが今のマベパールさんの作業所の先で爆薬を集めて時限爆弾で爆破したとおっしゃっていた爆薬が、第17震洋隊の艇に充填されていた爆薬だったことが分かり、何でもありの収穫となりました。

また、第17震洋隊の本部は入り江の奥にあったと勝手に思っていましたが、岬の両側に掘られていた格納壕での動きが把握できるよう岬の上にあったということも分かりました。三浦さんにお礼を申し上げ、瀬相に移動します。

瀬相の司令部へ向う道です。ここはもっと広かったと聞いていましたが、元の礎石が海の中に残っていました。
見えますか? 観光課さん、なんとかこの道を元の広さまで拡げていただけないでしょうか。

何でもありは、旧海軍司令部跡が加計呂麻の戦跡の中で一番重要な場所と考えています。加計呂麻で平和教育を行う上で、真っ先に来るべきところではないでしょうか。

瀬相の消防署の脇に旧海軍司令部跡の見取り図等を示し、加計呂麻島がどのような役目をしていたのか、どのような陣容であったか、ここでどのような戦いがあったのか、捕虜がいたのか、地元の人との交流はあったのか、戦後、慰霊祭が行われていたのかなど、島人にも島を訪れる方にも知っていただきたいし、是非、慰霊碑に手を合わせていただきたいと願っています。

明日もご一緒します♪

by amami-kakeroma | 2010-03-30 23:55 | 戦争 | Trackback | Comments(0)

壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます

リンクさせていただいている「岩清水日記」ブログさんの5月31日の記事『資料:イスラエル:村上春樹さんの「エルサレム賞」授賞式・記念講演全文』を読み、なぜ作家・村上春樹さんが授賞式に参加なさったのかを知りました。

(どうにも区分が的確とはいえない)このブログのカテゴリをガイドという職業柄「戦跡」とはしましたが、戦争に限らず、私達の毎日の暮らしの中に「壁(体制)と卵(魂)」は存在します。

『私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている--それが私たちなのです。私もそうだし、皆さんも同じでしょう。そして、私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。』

『壁はあまりにも高く、強く、冷酷です。もし勝つ希望がわずかでもあるとすれば、私たち自身の魂も他の人の魂も、それぞれに独自性があり、掛け替えのないものなのだと信じること、魂が触れ合うことで得られる温かさを心から信じることから見つけねばなりません。』

この村上春樹さんの言葉は、福祉に携わっていらっしゃる岩清水さんの毎日のブログからもヒシヒシと伝わってきます。

つい生活に流されてしまう日々の中で、「岩清水日記」ブログさんを訪れる時間は大事なんです。
是非皆さんも訪問なさってみて下さいね!!

by amami-kakeroma | 2009-06-01 07:22 | 戦争 | Trackback | Comments(4)

国立公文書館 デジタルギャラリー

国立公文書館 デジタルギャラリー」に、『大日本海岸実測図 大日本奄美大島海峡西部図』なるものがありました。

東部図は無いのかしら。この実測図ができたのが明治12年。久慈に海軍が石炭庫・給水施設を設置したのが明治24年。東郷平八郎が大島海峡で演習をしたのが明治41年です。

説明は、下記のとおり。

明治初期の銅版の海図を1冊にまとめたものです。
明治 4年(1871)に兵部省海軍部水路局が東京築地に設立され、翌5年測量艦「春日」により、日本人の手による第1号の測量が陸中国釜石港(現宮城県)で行なわれました。春日の艦長柳楢悦(Yanagi Narayoshi)(1832ー91)は、津藩出身、明治19年改組した水路部の初代部長を勤めています。海図の一隅に、経度・緯度や干満差、測量従事者の氏名等が記載されています。本書には、明治11年までに測量され、同12年までに刊行された海図が収められています。
海図は、そのサイズにより、1頁に複数の地図を収録してある場合もあります。原本のサイズは片頁で53cm×69cm、見開きの場合は106cm×69cmになります。目次30番の「大島神瀬補足之図」は、目次9番の「伊勢国礫港之図」と同一の頁に貼り込まれています。また、編綴が一部目次の順序と異なっています。
第35号。明治6年測量、同7年刊行。

by amami-kakeroma | 2009-04-18 23:16 | 戦争 | Trackback | Comments(0)

下関の岡本さんの資料 その1

10月7日、大屯神社祭(諸鈍シバヤ)が終り、家人と晩御飯を済ませてから、何でもありは渡連の「来々夏ハウス」さんへ。何度か加計呂麻をご案内させていただいた下関の岡本さんがお泊りです。

岡本さんは、昭和20年4月、蛟龍隊の通信兵として三浦の崎原へ上陸なさった方です。今回はスケジュールが合わず直接のご案内はかないませんでしたが、写真などの資料をお持ち下さっていました。
最上段右端が岡本さんです。
岡本さんが、待網崎の高射砲の部隊にいらした方3名(一人は写真撮影者)と、ご遺族の方と一緒に待網崎まであがった時の写真です。

今年88歳になる岡本さんの10年前のお写真です。昨年から今年にかけて足の血管が詰まり手術を受けられたそうですが、お元気でシバヤ見物にいらして下さいました。
これは戦跡ではありませんが、於斉にあった「民宿 於斉」の玄関だそうです。立っていらっしゃるのは奥様。岡本さんは、奥様も、お子様も、お孫さんも加計呂麻にお連れ下さっています。
こちらは、清水にあった国民宿舎「海中公園センター 龍宮」。とっても良かったのに、何でなくなってしまったのだろうと残念がっていらっしゃいました。何ででしょうね?

by amami-kakeroma | 2008-10-13 23:54 | 戦争 | Trackback | Comments(6)

徳浜の標的

見返り猫(ヒヨコ)岩近くの海岸に、船が砲撃訓練の標的にしたというコンクリートの柱があります。

船からの砲撃訓練というのは、この日の船長さんが教えてくださったこと。何でもありは、別の船長さんから、「本当かどうか分からないけど、真珠湾攻撃の爆弾投下練習用の標的と聞いている。」と教えてもらっていました。

さて、真実は?

by amami-kakeroma | 2008-03-20 23:11 | 戦争 | Trackback | Comments(0)