カテゴリ:豊島良夫覚書( 17 )

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載しています。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

2. ハブ岩

戦後、西古見でハブ(毒蛇)にやられる人が何人も出た。人口が増えて農産物の栽培面積が広くなるとネズミも増える。それを餌にするハブも当然増える。

西古見だけでなく、奄美ではどの里もそうであった。当然、人々はハブに注意する。どうにかしてハブを減らしたいものだ。神様までかり出された。

すると、「対岸に、西古見に向かってハブ岩がある。」ということで調べたら、実久の集落の裏側に天高く鎌首を西古見に向けて、いかにも跳び出そうとする蛇に似た岩があった。

西古見の青壮年達が実久にやってきて、そのハブ岩の首の部分を切り落とした。足場を組んでかなり重労働だったに違いない。岩は今でも胴体だけは残って天に突き出ている。昭和24年の話だ。 …実久出身 奥野勝さんの話 (平成17年2月1日)
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1. 伊子茂の西家

昭和25年ごろだったと思うが、父が双従兄弟の西道子さんの家の屋根の解体に応援に行った。加計呂麻の大庄屋だった家である。

当時、300年ぐらいたった家である。その家を作った主人が、「この屋根を葺き替える時には、時代に合わせなさい。」という遺言を残してあったそうだ。

茅葺から現在のトタンか瓦に葺き替える作業だ。かなり大きな家で5日ほど行った。言い伝えによると、大工の古老がこの家を作ったときに主人は目が見えなかった。その時、「柱だけは、上下間違いのないように。」と最初から言い付けてあった。

どうして目の見えない人が材木の上下が分かるのだろう。普通、私達が材木の上下を見るのに年輪とか節穴で判断する。又、重さで6割ぐらいは分かるが、大きな材木の年輪が真っすぐで判断できないものもままある。板などになったものは、とくに難しい。

大工さんが試してやろうと思った。わざとはずせるように切込みをを入れて、柱の上下を逆さにした。

すると、依頼主は真綿を持ってきて柱を検査した。大勢の大工さん達が青ざめた。いたずらしたあの柱は分けなく見破られた。それ以後、この家の普請は丁寧に続けられ、300年と言われた家も、さらに50年、今日に至っている。

武具、家具、骨董品も多数あったそうだが、西道子さんのご意志で瀬戸内町役場が保管、管理しているそうだ。いつかは見てみたいものだ。 …父 豊島一志  (平成17年1月20日) 
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「芝の終戦から30年まで~焦土から復興へ・人口ピーク時代」
 2.薩川国民学校

 一週間ぐらいして、薩川国民学校へ転入した。学校の校庭の東側に塩たき小屋があった。家のねばり小屋よりかなり広い。戦時中に塩をたいて供出したそうだ。

 毎日、私のように引き揚げ者の子供が転入してきた。3年生だった。学校では言葉が話せるのに、島に帰って友達を作ろうにも言葉が話せない。方言が全く使えない。

 昭和21年の冬、22年の冬には通学するのに足が痛かった。持ってきた靴が小さくなり履けなくなった。砂利が足に食い込んだ。特に遠足は嫌いだった。遠い道を足だけが進まず、気持ちはうれしいのだが、薩川から俵までとか、篠川から宇検村の山越え、また帰り道、木慈での作文 大会等は、青年学校の女の人に負ぶってもらった。

 3年生の真冬、靴がいよいよ履けなくなって、下駄を履いていった。学校の帰り、どうしても見つからない。シクシク、校庭で下駄を探して泣いていた。誰か珍しがって履いて帰ったのだろう。もう誰も教室にも校庭にもいないと思ったら、校長先生が出てこられた。

 「どうしたの?」校長先生にいきさつを話すと、すぐ近くの自分の家から大人の下駄を持ってこられて貸して下さった。

 重久富吉校長。私の父が高等科一年の時、初めて先生になられて、私が薩川中学校2年の時、退職なさった。親子2代教えていただいた尊い先生だ。

 6年生の時、昼食の前に海で手を洗いに行くと、干潮で5cmぐらいの魚を拾った。手のひらに乗せて見ていると、何かの弾みで親指を背びれに刺された。見る見るうちに腫れ上がって、痛い。かなり痛い。

 校長先生が家からサンダタ(粉の黒砂糖)を持ってきて塗ってくださった。毒消しにサンダタは良く効いた。学校の正門から下り、南へ2軒隣、50mも離れたところにご自宅があった。

 正門から芝へ700mぐらいのところに校長先生のサトウキビ畑があった。奥さんが毎年キビを植えられていた。キビ畑の外側を残して真ん中を芝の生徒が良く食べた。奥さんがご主人に注意を促すが、校長先生は答えない。

 堪りかねた奥さんはキビの葉を正門によくくくり付けられた。最初、私は正門の飾りだと思った。後で聞いてみると、芝の生徒は昔からそうだった。正門のキビの飾りは、何十年も続いていたようだ。
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「芝の終戦から30年まで~焦土から復興へ・人口ピーク時代」
 1.引き揚げ当時(昭和21年10月)

 引き揚げ船は、広島県の宇品湾から名瀬に着いた。私のところの一家6名、木慈の積さん10名、皆田さん4名、与路の保さん4名、徳之島の当信義さん、それに宇品で合流した何十人名かの奄美、徳之島出身者である。名瀬でそれぞれにお別れをした。名瀬入港は昼頃と思うが、すぐ芝出身のあずま旅館に入った。

 翌日、当時大島郡知事をしていた豊島至氏に挨拶にお伺いした。私は親戚の女学生に連れられて拝山(ウザン山)の墓地に上がった。豊島栄翁の胸像を拝見した。5~10cmぐらいの珊瑚の敷き詰められた小石に何か記憶を取り戻した。数え3歳で島を出て、今9歳。6年間ですっかり島を忘れてしまっていたのに、この珊瑚を見た時、何か思い出そうとしていた。

 古仁屋から東宝丸で芝に着いた。渡し板を降ろし、海に膝まで入り砂浜に上陸。母や妹は島に上陸した。薄暗かったので石垣しか目に入らなかったが、お城のように石垣がある。その中に家がある。素晴らしいと思った。浜でも家でもたくさんの方々が出迎えて下さった。

 一夜明けた。家の壁も屋根も草で出来ていた。びっくりした。島でいう「ねばり屋」である。母方の祖父母の家である。9尺×2間、別に6畳1間の炊事場があった。祖父母、叔父、叔母4名に私達が入り、10名が当分ここで生活した。

 朝食のサツマイモを食べて、芝の高台の神社に上がった。芝はほとんど戦災で焼けて、神社から浜の石垣まで見えた。故郷は焦土だった。100戸のうち92戸が消失していた。

 父の実家も行ってみた。東の庭のあとに20cmぐらいの柿の木と梅が1本ずつ芽生えていた。西の角に五右衛門風呂がぽつんと残っていた。焼け跡には他に何も残っていなかった。

 芝の集落の人々も、まだ、疎開小屋から抜け出せないでいた。父方は老祖母と叔母がいた。女手では小屋も出来なかったと思う。父と母でねばり小屋を作り出した。9尺×2間、便所。5、6年は、ほとんど毎年家を建てては潰し、また建てた。ねばり小屋は持たないものだ。
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「私の昭和18年」 12.引き揚げ船

 V15は貨物船だ。荷物を積み込むところを二重にして、上下に引き揚げ者は押し込められた。船の甲板にも、にわか家が乗せてあり、そこにも人々がいた。お便所もにわか作りで汚物はそのまま海に流した。船が揺れるたびに汚物は溢れて通路を汚した。

 300名とも500名ともいわれていたので、かなり大きな船だった。途中で1、2度アコーディオンを弾く人が演奏して回った。歌を歌った人もいた。耳から細い紐でトランクを持ち上げたり、歯で荷物を持ち上げる大道芸人もいた。
「日本人は大勢集まると、いろんな事をする人が集まるのだな。」
 子供心にも感心した。

 部屋は足を伸ばせないくらいすし詰めだった。トランクに体を半分乗せて横になっている人もいた。親子固まってそれぞれ過ごした。

「メシ上げ」
 銅鑼がけたたましく鳴ると子供達は甲板の炊事場に走った。ご飯のおこげがもらえる。おいしかった。「パリパリ」といって、とにかくおいしかった。

 4日ほどして富士山が見えた。日本に帰ってきたのだ。私は富士山と桜しか内地のことは聞いていなかったように思う。

 チフスが船で発生した。患者は2人と聞いた。そのうちに、静岡を過ぎた夜、1人亡くなって水葬にした。
「お棺は木籠で、鉛をいっぱい詰めて二度と浮上しないようにしてあるよ。」
と、誰からか聞いた。もう少しで日本に着いたら上陸できるのに残念だ。その子のお母さんは悲しんだことだろう。

 5日ほどして着いて上陸できると聞いていたが、チフスのせいか横須賀の沖で2夜ほど過ごした。陸地の明かりがぼんやり見えた。早く陸に上がりたかった。

 さて、いよいよ上陸。長い行列で艀の順番待ちだった。30名くらいずつしか乗らない。何時間も待った。そのうちに一時、船のクレーンで荷物を積み込み下ろす作業に見とれて行列を離れた。ウインチの横の浮き輪がボートの横にあった。日当たりもよくクレーンのフックの上下に見とれているうちに眠ってしまった。

 船員に揺り起こされて、
「たいへんだ。」
 船員が騒ぎ出した。引き揚げ者の行列はもう見当たらない。とっくに艀で送り込んだそうだ。船に残っていた引き揚げ者の責任者らしい人と3人、船のボートで陸に送り込まれた。

 両親も知り合いの人もかなり探したそうだ。父に頭を「ゴツン」と一発されて、宿舎に向かった。浦賀というところだ。宿舎から宿舎に移動するとき桜が満開だった。昭和21年4月20日くらいだったと思う。

 浦賀で、一緒に引き揚げてきた人々は、奄美出身者だけをおいて、全国に散って行った。鹿児島に腸チフスが大発生していて、鹿児島周りでは奄美に帰れない。

 一時、千葉県か埼玉県に収容したいと引き揚げ者援護局から言われ、奄美の大人達に相談された。千葉県は米がある、埼玉県はサツマイモしかないと言われたが、東京に近い。東京の奄美出身者に連絡が取りやすいだろうとの事で、埼玉県の福岡村に向かった。(了)
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「私の昭和18年」 11.日本一のビー玉もち

 第一次、第二次と引揚者は出て行った。第二次は会社の管理職だそうだ。父が尊敬したはずの工場長は、気違いの真似をして病院船で帰ったそうだ。

「わしらの○○先生は、一番にパーマをかけて、口紅をしてお嫁に行って第一次で帰ったよ。」
 何か悔しかった。
「国民学校で校長先生を父、女の先生を母と思いなさい。」
 私の尊敬する○○先生がパーマをしたなんて思いたくもなかった。何か裏切られたように思えた。

 子供達は、空き家とか空襲でやられて壊れたところでスパイごっこをして遊んだ。白墨で矢印をしたり、引き揚げた誰それの話をしたり、中国の蒋介石の首を打ちたいとか、マッカーサーを大根のように刻みたいとか、どうして神の国が敗れたのだろうとか話していた。

 ふと空き家の庭を見ると、ビー玉がたくさん転がっていた。カルタも落ちていた。私には一つも買ってもらえなかったオモチャだ。家具類はほとんど台湾人が集めて回ったので何も無かったが、庭にはビー玉やカルタがやたらに落ちていた。せっせとそれらを集めて、家の縁の下に蓄えた。2、3ヶ月のビー玉日本一の所持者だ。

 学校に行ってみた。理科の教材の人体模型とかエレクト(平賀源内)の実験機やビーカー、薬瓶等が散乱していた。このようなものを台湾人が管理したら、また使用できるのにと思った。私の手の届かなかった剣道の道具も泥まみれになって落ちていた。面を思い切り蹴飛ばした。

 月に一度、全員でお参りした神社は、さらにひどかった。屋根と柱だけが残されて、並木までが枯れかけていた。ゴミが境内に散乱していた。

 4月、ようやく私達も引き揚げることになった。第三次引揚者だ。砂糖会社の技術者は、指名されて残るそうだ。日本内地は「富士山」と「桜」、それ以外の知識は全くなかったように思う。

 家族で夜具一式。子供は、墨で塗りつぶされた本1冊、ノート2冊、鉛筆3本、胸から吊るした1000円札1枚だが、私の札入れには何も入っていなかった。通達でもあったのだろう、他はほとんど持出せなかった。

 デマがデマをよんだ。通達以外を持出すと、一人、一家だけでなく、全戸に迷惑がかかる。日本内地に帰れなくなる。電波探知機を米国は持っていて何でも分かってしまう。お金は1人1000円、布団上下が一家の全財産だ。子供達は先ほどの教材だけだ。列車の窓から余計なお金は破り捨てる人が何人もいた。

 タカオの埠頭で5、600名が荷物を自分の前に置き、2m間隔で両足を広げ、手を水平に伸ばして検査を受けた。周辺には銃を持った人が一番高いところで見張っていた。チャン笠をかぶった兵隊が胸や股を探った。

 女性には女性の検査官が回ってきた。1人、60歳くらいのおばあちゃんが履いていた草履を取り上げられた。あのおばあさん、日本に着くまで裸足だったそうな。涙がこみ上げてきた。

「さらば台湾よ。また来るまでは。」
 船の上から全員で歌い合唱した。タカオの港を「V15」」と書かれた貨物船で出航した。
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「私の昭和18年」 10.集団強盗

 10月に入って松おばあさんは先に嘉義の自宅に帰り、私と叔母と2人でおばあさんの荷物を届けることにした。トランクとか柳行李、布団袋など7個を嘉義の駅から人力車に積んで運んだ。

 途中で果物屋さんに寄り、先方への手土産を買いに立ち止まった。
「あなたは荷車から離れないようにね。先に行きなさい。すぐ追いつくから。」
 叔母はそう言って店に入った。私は荷車と一緒に歩き出した。何度か行っていたので、先方の親戚の家は知っていた。嘉義の郡役所は駅からロータリー交差点を斜め上にあがる。子供心に家と反対に、と覚えていた。

 ところが、荷車の台湾人はロータリーを一周すると、郡役所と反対方向に走り出した。違う。私は急いで台湾人に行き先を告げた。台湾語で怒り出した。私は荷車の後ろにしがみついた。

「重たい。どけ!」と言ったのだろう。言葉も通じない。私を振り切って荷物を盗りたかったのだろう。私は国民学校3年生。体も一番小さかったので、台湾人は甘く見たのだろう。かなり怒鳴りたてながら進んだ。

 周囲を見ても焼け落ちた町並みだけだ。日本人の人影も全く見えない。荷車は側道に入ったり大通りに出たり、かなり動いた。「荷物を盗られてたまるか!」私は泣きたい思いをこらえて荷車に寄り添った。

 大通りに出てしばらくすると、10名くらいの兵隊さんの一行が前方に見えた。できるだけ近寄せて、「兵隊さん、助けてー!」と私は叫んだ。迷子になったこと、行き先を「郡役所前です。」と告げると、「少々遠回りになるけれど、……護衛します。」と私に敬礼した。「日本人の子供は強いね。」と言った途端、私はこらえきれなくなって泣き出した。大声で泣いた。

 郡役所、宮前町の親戚の寮の前まで来たら、10名ほどの日本人が立っていた。叔母や親戚、その周辺の日本人だった。10時から2時まで4時間迷子になっていたのだ。

「10円くれ。」と荷車の車夫が言った。「いや8円だ。」と私は言い張った。

 昭和20年の11月頃になると、どこからとなく集団強盗が出没し始めた。2、3戸の農場がやられた。日本人の少ない農場だ。新港農場もお隣と2戸だけだ。危ない。でも日本陸軍の兵隊さんが6名、私達を護衛している。お隣の田尻さんは姫路の方の大農家で、姫路の城のお姫様がお忍びで遊びに来ていたといわれる言い伝えがあったそうだ。

 引き揚げる荷物以外は処分した。台湾人が群がって買いに来た。その2、3日後だった。真夜中12時ごろだ。「集団強盗だ。豊島さん、逃げなさい。」大声に目を覚まして、私達一家は起き出した。

 父は兵隊さんに知らせに走った。母は私と弟を連れて、それぞれ別の方向に走った。途中で母とはぐれ、大きなモクマオの垣根の下に潜り込んだ。母と弟は知り合いの台湾人の家に逃げ込んだ。叔母は川岸の米松の下に逃げた。

 米松の下から農場の入り口を見ると、トラックが2台、橋の上に停まっていた。見張りの運転手に妹の静子が見つかり石を投げられたので怖くなり、田尻さんの縁側の下に逃げ込んだ。一番危ないところだ。その真上を集団強盗がドタンバタン。たんすや布団、手当たり次第に持出して、上がったり降りたり足だけが見えたそうだ。

 1、2時間と思うが、やがて静かになり、集団強盗が走り去った後、叔母は縁側から出てきて、月の下で次女の三千子の顔を覗き込むとニッコリしたそうだ。「神様、この子が泣かないで、声も出さないで。」とそればかり祈っていた。わずか6ヶ月の赤ちゃんでも緊迫した周辺の状況に反応するのだろうか。赤ちゃんの月の下のあの笑顔は、当分叔母の頭から離れなかった。

 さて、私は。モクマオは1mくらいの垣根だ。外からは見つかりっこない。集団強盗と陸軍の兵隊の小競り合いが目の前であった。お祭りに使用していた青龍刀とか三日月の槍とか台湾人の武器に対して、兵隊の武器は野球のバット2本だけだった。兵隊はだんだん押されて遠ざかっていった。1人重傷を負ったと後で聞かされた。

 田尻さん一家はかなり裕福だが、私の家は子沢山で貧しかったので盗られるものは何も無い。最初から調べてあったのか、一度も強盗は入ってこなかった。田尻さんも私達一家も無事だったが、陸軍の兵隊さんはお気の毒だった。

 もう第一次で学校の先生とか巡査は引き揚げて空き家が出来たということで、三東の町に引っ越した。最後までトロッコは陳さんが運転してくれた。

 21年の正月は三東の町で行ったが、陳さんが台湾餅を持ってきてくれた。
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「私の昭和18年」 9.台湾人の生活

 昭和20年8月15年、静かな日だった。農場の事務所の前に主任、私達一家、10名ほどの台湾人が集められ、ラジオを聴いた。玉音放送である。私には難しくてわからなかったが、大人たちの話で負けた、日本が米・英に敗れた。台湾人もすすり泣いた。台湾が日本に統合されて50年、再び中国が台湾を統治するのか。台湾人は、将来再び乱世を予告したように悲しんだ。

 9月の2学期にあわせて国民学校に行った。「サンミンツィ」黒板に中国の国歌が書かれていた。他の授業は記憶に無い。この中国の国歌だけが幾度も覚えさせられたが、日本は戦に負けて三等国民になったのだ。

 爆弾の後の校庭もむなしかった。教室は無事だったが、校長先生の肩ががっくり落ちていた。2人ほどの男の先生も見えなかった。出征なさったそうだ。級友もほとんど口をきかなかった。神社参拝もなかった。校庭に植えられたヒマシ(飛行機の燃料用の植物)も力弱く見えた。

 学校が1ヶ月くらい閉鎖された。500名ほどの海軍の兵隊さんも、私が学校に行っている間に引き揚げてしまった。

 松おばあさんは、カギの町から疎開してきていた。母方の親戚だった。新港農場には、日本人が田尻の主任さんと私達一家、父、母、私、静子、望、それに生まれて6ヶ月のミチ子、遠縁の松おばあさんの8名だけだ。今まで父の会社で働いていた台湾人が20戸120名だ。

 兵隊さんは、どうして一番先に引き揚げたのだろう。ただ1人だけ衛生兵が、私達一家と田尻さんを見守るために、海軍さんの一隊から残された。一週間ほどして、陸軍の兵隊さんが6名、私達を保護してくれるためにやってきた。ほとんど何の武器も持っていなかった。そういえば、海軍さんも何の武器も持っていなかった。

 私は置き土産に罫線の入ったレポート用紙を600枚と鉛筆を10ダース、鉛筆を研ぎなさいと軍刀の刃先を30cmくらい折って柄の部分を10cmくらいゴムで巻いてあげた。子供だ。少しでも刀の刃を出そうと、そのゴムをはずそうといじって指を切った。よく切れた。青白い骨が見えるほど深く切った。海軍さんは野球のバットを2本くれた。

 9月に入ってすぐ、海軍の残った衛生兵に連れられて、トロッコで海軍の本隊のいたところに行った。指令がない。連絡が全く取れない。いぶかって衛生兵は本隊に行くことにした。新港農場から山東の国民学校を通過し、さらに30分か1時間トロッコで別のところに本隊はあった。

 すでに引き揚げて全く無人だった。2000名くらいいたそうだ。衛生兵はがっかりした。取り残されたのだった。ちょうど昼時だった。水も無い。衛生兵は医療倉庫から何箱かブドウ糖のお菓子とブドウ糖の点滴薬を持ってきた。

 紫の表紙に菊の御紋の章の入った立派なお菓子だ。戦いで戦死した兵隊や戦病死した兵隊の口に最後の食事として天皇陛下から賜るお菓子だ。「このお菓子がたくさんあるということは、私の所属する隊は、ほとんど無事に帰還できたということだよ。」兵隊は少し笑顔を見せた。

 そのお菓子と点滴薬を2人で飲んだ。「これは薬だから、あまり飲んだらいけないよ。持って帰ってお母さんに少しずつ出してもらいなさい。」

 日本兵は引き揚げるとき、全てをそのまま残すものだ。事務所も日本の地図が飾ってあった。本棚の書類も机の鉛筆立ても、明日出勤してすぐ使用できるかのようにそのままだった。衣類、倉庫も兵舎もそっくり残されていた。衛生兵は、「チキショウ!」事務所に向かって2、3度怒鳴っていたが、私を連れていったんトロッコで新港に帰ってきた。

 2、3日して衛生兵はいなくなった。
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「私の昭和18年」 8.台湾人の生活

 新港農場は砂糖会社が計画的に作った農場で、今まで父が勤めていた農場の敷地とほとんど同じ構造になっていた。東西南北が少し違うだけで、私も学校に行けなくなると自然と台湾人の家をのぞくようになった。

 日本人宿舎も台湾人宿舎も見取り図は同じだった。台湾人宿舎は6畳ほどの板間と6畳ほどの土間だけだった。土間で炊事をしていたようだ。水は共同井戸で、長い紐で、水面が雨季には浅く、乾季にはかなり深かった。

 よくパイパイをしていた。長椅子にお線香、神様用に洗面器、お茶、お餅、ごはん、煮物と見事なご馳走だった。

 生活は農場で働き、また農場に吸収されなかった川の淵とか荒地を耕してわずかな野菜を作り、主食はサツマイモで、サトウキビの輪作に米やイモを作っていたように思う。家畜の牛や馬、水牛は農場で飼っていたが、山羊、豚は個人で、ニワトリ、アヒル、ガチョウは個人ではなく飼い、空き家の縁の下で孵化させていた。

 結婚式も賑やかだ。印象に残るのは、お札に赤いリボンをつけ、新婚さんの部屋の壁一杯に貼り付けていた。

 また、葬式も厳かだ。長い大きな丸太を刳りぬいてお棺を作り、広場で10名ほどで担いで移動させる。お棺の主の位置には小屋をはり、行列には親戚、ご近所、お棺の近くに泣き女がついて、この無き女の数で葬儀の大きさが分かるそうだ。笛、太鼓、飾り物、それはそれは3日も4日もかかる、全財産を使い果たす盛大なものだ。

 またある日、壮年が早朝草籠を背負って畑に行くので、「何がいるか?」と尋ねたら、子供の死骸だった。赤ちゃんは自分の前に置き、何かの拍子に後ろ向きに井戸に落ちて、発見されるのが遅く溺死したらしい。親より先に死ぬことは一番の親不孝だと、線香の1本もあげず、畑の隅に穴を掘り埋めて、作物の肥料にするそうだ。先ほどの老人の死とは大違いだ。

 沖縄や奄美でかつて呼ばれていた「のろ」。予言者、占い師、医者に相当する人の死は、さらに壮大な葬儀をあげ、土饅頭もセメントで練り上げる。

 学校に行く途中、大きな墓地を通過する。お墓はお棺を埋めて小山を作る。日本の古墳と同じだ。お墓の正面にかまぼこを輪切りにしたような墓標がある。何か書かれてあったが、ほとんど見ていなかった。火葬もあったようだ。

 新港農場から三東国民学校に行く途中の竹林の中に、三東国民学校の分校が独立した台湾人ばかりの学校があった。先生はほとんど日本人のようだった。「5、牛若丸。」大きな声で歩きながら本を読んで通学する。日本語教育をしているのだ。

 トロッコの線路が交差するところがあった。でも私の住む新港農場は遠くて、そこまで行けば主任さんや父が日に一度くらい日本語を教えていたように思う。

 2、3歳くらいの幼児が可愛かったので、思わず「可愛いね。」と頭をなでてやったら急に泣き出して、その子の親が怒り出した。私は左利きで、左手を使ったからだ。台湾人は子供の頃から右はご飯を口に運ぶ手、左はおしりを洗う手とはっきり分かれていて、私が知らなかったからだ。

 また、赤ちゃんを覗き込んで、「可愛いね。」と声をかけたら、やはり泣き出した。びっくりしたのだろう。あまり泣きすぎて引付をおこした。大変だ。薬に私の小便をくれとせがまれた。私の母が頭痛薬を差し出すと、目の前で破って捨ててしまった。あくまでも私の小便が欲しいらしい。私は汚いからと拒む。母は仕方なく私の古着をやった。私が寝小便するから、その古着をやると、それを煎じて飲ますといって話はついた。そのようなこと以外はほとんど接触がなかった。

 妹の静子は片言の台湾語を覚えていて、母と台湾人の通訳をしていたようだ。私は、こおろぎ「トッペア」、蛙「ツィケ」、婦人「チャボラン」、子供「ギナ」、バナナ「キンチョー」ぐらいしか覚えていない。

 養豚が盛んで、ほとんどの台湾人が豚を飼っていた。オスの子豚は早い段階で去勢をした。昔からの去勢の技術だ。早く太らすためという。金玉を抜き取って、鍋の底の炭か煙突の煤煙を塗って消毒、さらに田の泥を塗りこんで放してやる。それだけだった。

 また、彫刻をする人もいた。杖を持つ頭のつるりとした仙人を彫るのが得意だった。空手をする人もいた。竹細工もしていた。赤ちゃんを座らせる籠とか、椅子など、かなり高度な技術を持っていて、丸太小屋など梁、柱木材の代わりに、竹を使った柱にする竹は、中の空筒が小さく、立派な柱竹は集落の周りに植えられていた。チマキも竹の皮で包まれおいしかった。

 昭和19、20年は学校に行けなかったので、こうして台湾人の生活を見たり、夏の間は野原を駆け回ったり、鉄橋の下のセメントについた海老を捕ったり、ツルムラサキの実を採って白い布切れを紫色に染めて理科の学者になりたいとか、土蜂の巣を観察したりして遊んだ。
現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載します。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「私の昭和18年」 7.兵隊さん

 学校へ行けなくなると、人里はなれた農村の一角は台湾人ばかりで、お隣の田尻さん(当時25、6歳の会社の主任さん)と2軒だけが日本人だった。

 ○○部隊500名くらいの戦争を放棄したと子供心にも思われる群れとおつきあいだ。○○部隊の任務とかは○○で私達には全く知る由もなかった。ただ、北海道出身の連隊、南洋に行く途中で船がないので当地に足止めになっている、そのような話だった。

 一週間に一度朝礼があった。全員が整列して、部隊長さんが右から左に敬礼して歩く。腰に立派な軍刀を下げていた。私も3mくらい後ろから、1mの棒切れを腰に差してついていく。だれも注意しなかった。

 500人の兵隊さんは器用だ。一週間くらいで兵舎を建てる。お風呂を作る。左官屋さんも大工さんも中にはいるのだろう。大きな500人分の食事をする炊事場もすぐできた。

 私も「豊島良夫、視察に来ました。」と教えられた。言葉でいうと、皆さんニコニコしてどこでも見せてくれた。

 お近づきにと、部隊長さんからお酒が2本届いた。父は神棚に乗せて、うやうやしく毎日、朝昼晩、手を合わせて拝んだ。続いて私も拝んだ。

 ある日、海軍の若い士官さんが10名ぐらい遊びに来た。神棚のお酒をを見つけて祝杯をしようと酒瓶をおろした時、みるみる顔色が変わった。「豊島さん、申し訳ありません。」部隊長の給食係りが間違ってうがい薬を持ってきたのだ。早速、本当のお酒が届けられた。肉も届けられた。人数も15名ぐらいに増えた。肉料理も兵隊さんがした。家で賑やかに士官さんたちが酒を飲んだ。

 1ヶ月に1度外出日があった。私はあのグループ、このグループと誘われて新港の町に連れて行ってもらった。映画を見たり、お菓子屋さんで大きな大砲巻きを買ってもらった。

 兵隊さんの休憩を見計らって国語の本や算数の本を持っていき、勉強を教えてもらった。読書の兵隊さん、算数の兵隊さん、2×2=4の兵隊さん、私は名前は分からないが、最初に教えてくれた兵隊さんをそのように呼んで遊びに行った。

 柔道も相撲もレスリングも兵隊さんの中にはいた。腕を引っぱられて脱臼したら、腕を引っぱってすぐ入れてくれた。兵隊さんの中には何人もお医者さんもいたようだ。

 6歳下私の妹も、昭和20年当時5歳だった。笠井さんという士官さんによく遊んでいただき、顔を洗ってもらったり、なついていたようだ。