2005年 12月 20日 ( 1 )

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載します。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。


1.日麻きやく飛行場

「パッ」「パッ」「パッ」
1機の飛行機から5つほどの落下傘が青空に舞う。全部で10機ほどだ。私を含め6名ほどの学童が両手を上げて歓喜した。
「バンザイ」「バンザイ」
落下傘に向かって大声で叫んだ。

 昭和18年の夏休みまで、私達一家は台湾のカギの日麻きやく飛行場の横の農場にいた。日本人の家族が4戸か5戸で、他は台湾人の住居が40戸ほどの農場だった。砂糖会社のサトウキビを栽培する農場で、10ほどの川を挟んですぐ飛行場の草むらだった。

 天気のいい日には、よく飛行場で落下傘の訓練が行われた。日本の軍人は勇ましく、高い飛行機から飛び降りて敵の陣地に殴り込みだ。男の子供たちは大人の話を聞いては軍人になることを夢見ていた。 飛行機乗りは航空部隊、落下傘は空挺部隊だ。難しい文字もまだ書けない私にも、そのような言葉は次々に飛び込んできた。

 国民学校に入学したのが満6才。早生まれだったので、日本軍が一番勇ましかったころだ。3歳年下の妹と私の2人しかいなかったが、別の農場から1年前にこの農場に来て、弟が生まれた。

 この農場は学校も近かった。国民学校に5名ほど通学していたので、その上級生からの情報が1年半ほどの間の私の情報源だ。男の子が3人、女の子が2人、休みの日には軍人の話を聞いたり、看護婦の話を聞いたり、これらはすべて、私は学童間の話から聞いていた。

 時には世界地図を見せてもらって、赤くななめの帯のような日本の地図に大陸の中国、朝鮮半島、南洋と、日本が占領した土地が赤く染まっていく。

 教えてもらう軍歌も勇ましい歌が次々入ってきた。「若い血潮の予科練の」とか「月月火水目金金」とか、実に勇ましかった。

 ある日、父が台湾人の少年を雇い入れて、門から10mほど玄関まで、又、軒下の草取りをさせた。私は一日中少年の草取りを見ていた。

 奄美の方言で「コーブシ」という草が生えていた。1本掘ると3本残ると思われる草だ。少々深く掘るときれいにとれるのだが、少年は最初の1時間か2時間は深く耕して草の球根を丁寧に掘っていたが、飽きがきたのか、草の上に土を練って塗り固めていった。表面はその方がきれいにできた。きれいにできたはずの庭は、2週間ほどで再び草が生えだした。父は再び少年を呼んで、かなり怒鳴って草取りをさせた。草の球根をとることを盛んに言っていたようだ。

 大勢いた台湾人の少年たちの中から、その少年を私は最初に覚えた。言葉は通じなかったと思うが、少年が鶏のひよこを見せるというのでついていって、台湾人の居住区に入った。長い住居が2棟あり、日本人の住居とは全く違う雰囲気だった。鶏や子豚などが人の家の入り口から出入りしていた。

 1時間くらい連れまわされて、2人で草むらに寝そべった。
「口を大きく開いてごらん。」
少年の仕草で私は口を大きく開いた。少年は2度ほど咳き込んで、いきなり唾を私の喉深く吐きこんだ。とっさのことで私はすぐ吐き出そうとしたが出てこなかった。家にとんで帰って口の中を洗ったが、嫌な感じは忘れることができなかった。

 草取りもインチキして、私の父親に怒鳴られたこと、唾を喉奥に吐き込まれたこと、幼児の私はこの2件ですべての台湾人が油断のならない敵と思えた。それから長い間、台湾人の居住区に入らなかったのは言うまでもない。

 私にとってもこの出来事は寂しいものだった。日本人の子供として、外国人を見る目がだんだん差別の目で見る、悲しいことになっていった。台湾人、中国人、朝鮮人、耳から入ってくる外国人の差別用語も自然に入ってくる。