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「私の昭和18年」 5.山東国民学校

現在、芝集落の区長さんをなさっている豊島良夫さんの覚書を連載します。記憶をたどって書くので、用語など現在では不適切なものもあるかもしれませんがご容赦くださいとのことです。著作権は豊島良夫さんにあります。

「私の昭和18年」 5.山東国民学校

 1年生の2学期から山東国民学校に転校した。全校児童90名くらいで、複式学級だったと思う。郷先生、西郷隆盛の郷と教わった。学校を出て間もない先生だった。前の学校では小さい方から5、6番目だったが、今度の学校では私が一番小さかった。算数と理科は良くできたが、他は良下とか可だった。

 いじめられた。弁当の時間に白墨を弁当に入れられた。白墨は毒かと思っていた。先生達は白墨の粉を吸うので肺病が多いと子供達にいつのまにか話していた。郷先生は私の弁当を見て、白墨を入れた子供を怒鳴りつけ、お米の尊さを話した。農家の人が88回も手を加えて作り出したものだ。先生は自分の弁当と私のをとりかえて、こともなげに食べられた。

 腰掛にランドセルを掛けていた。皮でできていると思った、赤味がかったつるつるの蓋のついた、学級で一番目立つ立派なランドセルだ。私が少し得意になっていたら、悪がそのランドセルにのしかかった。ランドセルは首のところから裂けてしまった。紙でできていたのだ。戦時中の粗悪品。皮の代用品だった。郷先生は持って帰って修理してくださった。きりか何かで穴を開け、太めの糸で縫ってあった。

 工作の時間に粘土が配給された。船とか飛行機、大砲とか作っていた。いつの間にか陳さんが教室の窓の外から覗いていて私を呼び、粘土をくれとせがんだ。自分の粘土を半分陳さんにあげた。私は大砲を作った。陳さんは自分が作ったねずみを差し出した。しかたなく私はねずみと大砲を先生に差し出した。先生は陳さんに一礼すると教室の後ろに展示した。子供の作ったものと大人の作ったものは出来栄えが違う。先生も怒らないで展示してくださって、私は胸をなでおろした。

 2年生になったとき、男子は剣道、女子は竹槍の稽古を行った。上級生は面とか小手とか剣道具を身につけて上座に座った。自分で買ったのか、学校に備えてあったのかわからない。私は何ももらえなかった。体が小さかったので、一番後ろの下座に座らされた。一度も竹刀も持たされなかった。見ているだけで剣道の稽古である男の子だった。

 戦争が激しくなってきた。黒板に先生が記入する数字は、先ず今朝の大本営発表か戦果が書かれた。昭和16年12月の真珠湾攻撃の話では、敵空母10隻、駆逐艦・巡洋艦30隻撃沈、日本の飛行機は無傷で帰還したこと、18年ミッドウェイでは負けたこと、それでも米国の空母を5隻も沈めたこと、日本の損害はいつも十分の一か二十分の一だった。

 私は学校での先生の話は、母にいつも話していた。ニュースは学校で聞いて、私が家でする役目だった。学校の近くに靖国神社の分社があった。日曜のたびに学童が掃除するが、私はほとんどやったことがなかったが、学校からお参りには行った。

 修身では歴史を習う。乃木大将とか西郷隆盛、楠木正成、大砲抱えて敵陣に突入した三勇士とか、日本は神の国だから敵が攻めてきてもいつも水際で敵を追い払う。蒙古軍が攻めてきたときも神風が吹いて日本を守ったこと、日本はいつも安心して住める国だった。それでも昭和19年に入ると空襲がにわかに激しくなってきた。

 台湾でも、ひんぱんに敵のB-29が飛んできた。学校でも30cmくらいの丸太を赤く塗って、教室の中から竹の棒や箒で外に出す訓練や、耳と目をふさいで防空壕でしゃがみこむ訓練を行った。山東国民学校の周辺の住宅には、四角い防火用水のタンクがどの家にもあり、バケツで火を消す訓練も行った。
by amami-kakeroma | 2005-12-23 22:40